もっと楽しく元気になる食べものとかの話

人生がもっと楽になる。身体を作る食べ物のこと、栄養のこと、早く知りたかったこと、シェアしていきます。

グルテンフリーはファッションなのか?

 

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グルテンは、小麦に含まれるたんぱく質です。グリアジンというたんぱく質と、グルテニンという名のたんぱく質が、小麦粉に水を加えて練ることで、絡み合い、ゴムのような進展性と弾力を持った「グルテン」ができます。このグルテンこそが、パンを膨らませる骨格となり、フワフワだったり、サクサクだったり、人々を魅了してやまない食感を作るのです。

 

これを含まない食べ物が「グルテンフリー」です。

大麦やライ麦にも、全く同じではないけれど、構造の似たたんぱく質が含まれ、これらも含まれていないものになります。

 

グルテンフリー」という言葉、最近では珍しくもなくなりましたが、「何のためのグルテンフリーなのか?」はあまり理解されていないように思います。

 

「フリー」って主張すると、じゃあフリーじゃないのは?入っていたらダメなわけ?って反射的に思いますよね。

だめじゃないです!!グルテン=悪ではありません。ダメな人がいるだけです。

 

私が小麦を食べない理由 

私は2014年夏ごろからずっとグルテンフリーな食生活をしています。なぜかというと、麦を食べるとお腹が痛くなり、背中が痛くなり、ひどい疲労感に襲われるからです。2,3日引きずります。だんだんとそういう状態になっていたのですが、「遅延性フードアレルギー検査」を受けるまでは、それがグルテンのせいだとは全く気が付きませんでした。

ただ、うどんを食べると、15分も経たないうちにお腹がひどく痛くなるのは自覚しており、うどんに何か変な添加物が入っているのではないか?と思ったりしていました。

 

思い返せば、小麦に反応するようになってから少なくとも3年は経っていたと思います。その検査によって、やっと小麦が自分の身体に合わないことに気づき、それ以来小麦を食べるのを辞めました。でも、この検査で反応した=「アレルギー」な訳ではありません。原因はいろいろあります。小麦を食べすぎたからアレルギーになった。というわけでもありません。

 

人に理解してもらうのもなかなか難しいので、「アレルギーではないんだけれど、食べると具合が悪くなるから食べられない」と説明しています。

 

グルテンフリー市場

近年では、「グルテンフリーコーナー」を設けているスーパーもありますが、この言葉、いつから出てきたのでしょうか?

 

1999年には、米国中西部のミネアポリスというところに住んでいました。当時そこにあったベーキングスクールのフランス人講師の助手をしながら製パンを学んでいました。その頃は「グルテンフリー」という言葉を聞くことはありませんでした。どちらかと言うと、小麦=ナチュラル≒ヘルシーぐらいなイメージだったと思います。

 

今やグルテンフリー市場は右肩上がりと聞きます。とある資料によると、世界のグルテンフリー市場は2005年では約79000万米ドルだったのが、2024年の予想は約100億米ドルなのだとか。かなりざっくりではありますが、20年間で13倍です。

 

日本では、少なくとも2012年頃は「グルテンフリー」という言葉はあったかもしれないけれど、聞いたことがありませんでした。

 

「小麦は食べるな」?

2012年の11月にパン屋をオープンしたのですが、2013年7月に「小麦は食べるな」という、アメリカ人医師ウィリアム・デイビスが書いた著書の日本語版が出版され、結構話題になっていました。

私はそれをなんとなく横目で見ながら読むことはなく、「なに言っちゃってんの?」と思っていました。パン屋でしたから。

でも、ちょうどその頃自分の身体がいろいろと異変をきたしており、ドクターショッピングを重ねていました。

 

さらに1年後の2014年夏に、ようやく小麦が身体をさらに傷つけていることに気が付いたのです。小麦は原因ではなく、それまでの様々な無理がたたって腸が炎症を起こしており、腸に優しくない小麦にやられていたのです。

 

それから「小麦は食べるな」も読みました。

 

「小麦は食べるな」では、全ての疾患は小麦のせい。というような極端な書き方がされていますが、さすがにそうではないと思います。そうではないけれど、やはり「小麦を食べられる人」と「小麦を食べられない人」と、「小麦を食べない方がいい人」の3種類の人がいると思います。

 

「小麦を食べられる人」と「食べない方がいい人」と「食べられない人」

私なりに思っている基準は、まず「小麦を食べられる人」は、食べても食べなくても何も変わらない元気で健康な人です。多くの人はこの部類だと思います。パンを食べないパン屋を続けながら、心の中で、お客さんたちみんないいな。なんて思ったりもしていました。

ただ、よっぽど避けなければ、毎日何かしらの小麦は摂取しています。

何かしらの不調がある人は、一度思い切って小麦を完全に辞めてみると、意外にも不調がなくなることがあるかもしれません。

きっちり2週間くらい、全ての小麦製品を辞めてみます。

2週間以上除去したら、また食べてみます。そして身体の変化を観察します。

 

もし、長年の鼻炎が治まったり、皮膚の炎症が落ち着いたり、身体の痛みが消えたり、心のザワザワ感がなくなったり、といった変化に気が付いたら、小麦に反応しているかもしれません。反応があった人は、「食べない方がいい人」です。「グルテン感受性」とくくられる人達です。

 

小麦に限らず、それが他の食べ物のせいということもあるかもしれません。例えば乳製品とか。

 

遅延性フードアレルギー検査は、未だに日本の保険診療では認められておらず、自費となるためちょっとした出費になりますが、2週間食べないで様子を見るのは、さほどお金はかかりませんし、確実です。体調に不安がある人は試してみる価値があります。

 

プロテニス選手のノバク・ジョコビッチが小麦を食べるのを辞めて、世界ランキング1位に上り詰めたのは、知っている人も多いかもしれまえせん。ジョコビッチも、「食べない方がいい人」だと思います。

 

我が家の夫と次女は、「小麦が食べられる人」です。私と長女は「食べない方がいい人」です。長女は小麦を食べるのを辞めて、アトピー症状が落ち着きました。

「食べない方がいい人」は腸を整える必要があるかもしれません。

 

「小麦を食べてはいけない人」は、小麦の即時型アレルギーの人と、セリアック病の人です。

即時型アレルギーは言わずもがな。命に関わることもあります。日本人成人の食物アレルギーの、アレルゲンの第一位は小麦で、成人の0.21%が小麦アレルギーだという統計があります。

 

セリアック病は、欧米人に多いと言われていて、アメリカでは130~140人に一人がセリアック病と言われています。どんな病気かは、ググっていただければと思いますが、グルテンの摂取によって、小腸の微絨毛が変性するなどしてしまう自己免疫疾患です。

やっぱり腸です。

グルテンを摂り続けると、悪性リンパ腫など、合併症を引き起こす可能性があるそうです。

遺伝的要因が大きく、アジア人では少ないと言われていますが、日本人でも一定数はセリアック病の人はいるようです。

 

セリアックの人がグルテンを摂取した時の症状は、私の状態とも似ていたので、セリアック病の検査もいくつか受けました。幸いセリアック病ではなさそうでした。

 

何かと近年悪者にされがちな小麦ですが、私は大好きだったので残念です。作り方次第で様々な食感が出せたり、長時間の醗酵で素晴らしい風味が生まれたり。

 

現在の小麦は、品種改良の末、古代の小麦とは別物と言われますが、人類の命をつないできたことは間違いないと思っています。

 

話がずれてしまいましたが、小麦グルテンにやられていると気が付き始めた人が、一定数に達し、グルテンフリー市場がぐんぐん伸びているのだと思います。

 

ただ・・・・・

私はいわゆる「グルテンフリー食品」をたまにしか買いません。

小麦粉を家に置かず、普通に素材から料理をしていればグルテンフリーは簡単です。

(さすがにグルテンフリーの麺類は買いますが、米粉で大抵のものは作れます)

今のところ、「グルテンフリー食品」は、添加物が多くてびっくりします。(もちろん入っていない素晴らしい商品もあります)

 

2015年のアメリカの調査で、「とあるお店のお客さんの25%の人がグルテンフリー食品を購入したが、そのうち8割以上の人はセリアックでも、アレルギーでもなく、健康増進や腸の健康のために購入した。」のだそうです。成長したグルテンフリー市場で今後生き残っていく商品は、きっと添加物の少ない、クリーンな食べ物なのでしょうね。

そもそもなんでパン屋だったのか?続き

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「どう生きたら、死ぬ時に後悔しないんだろう??」から続きます。

 

25歳で100日を超える入院から復帰した私は毎日考えていました。

 

同じ病室にいた女性は、最初は元気に見えたのに、癌のために乳児を含む3人の幼い子供を残して亡くなってしまいました。私は死ぬことがとても怖かったのです。自分が認識することさえできない長い長い永遠の時を思うと、どこかに吸い込まれるようななんとも言えない感じがします。

 

とにかく、「死ぬ時に、ああ良い人生だった。って思いたい」

「今の私は、自分の人生を生きていない」「このままじゃだめだー」

強烈にそう思いました。

 

でもこれは仕事の優劣の話ではないのです。

「自分で決めていない」という感覚でした。

 

私の両親は、いわゆる毒親ではありません。他と比較することはとても難しいので、あくまで私の主観ですが、過保護過干渉と心配症の気がある普通の愛情ある親です。そして、私はいちいち反抗しながらも、結局は親の薦める道を歩いていました。

 

自分も娘を持つことができた今ならわかります。親も自分が薦めていることが必ずしも正解だとは思っていなかったのだと。

考えていたことは、私に「幸せな人生を歩んでほしい」だけだったと。そのために自分が考えうるなんとなく良さそうなコースを提示してみただけだったのだと。

 

それを、「こうしなければならない」と受け取ったのは私で、それにあらがうほどの別の何かに対する情熱を持っていなかっただけだと。

 

もし私が自分の娘にアドバイスをすることがあれば、「こんな道もあるよ。でもそれが正解かどうかは分からない。」と伝えたいと思います。それと同時に、小さなことから、「自分で決めさせる」を心がけています。子どもにとって(特に女の子?)親の言葉は思ったよりも影響が大きいように思います。

 

25歳の時は分かっていませんでした。

子供の頃から全てを悟っているかのような人もいます。私はまだまだ生まれ変わりが足りない。と最近よく思います。それは自己否定ではなく、むしろあきらめと自己受容だと思っています。だからこそ、ずっと成長し続けたいという欲があります。

 

そして、25歳の私が出した答えは「自分が決めたことをずっと続けることができれば後悔しないだろう」でした。そして、それがパン職人でした

(今は少し考えが変わりました)

 

まだ「なんでパン職人?」の答えにたどり着きませんね。

 

子供の頃からよくお菓子は家で焼いていました。楽しかったからです。食べ物を作る仕事がしたい。という気持ちはずーっとありました。

ローラ・インガルス・ワイルダーが開拓者としての自分の生涯を書いた「大草原の小さな家」シリーズが好きで、食べ物はもちろん、全てのものを一から作ること、自立して生きることへの憧れがありました。中でも、開拓者が作る「サワードゥブレッド」にはパン作りの原点があり、とても惹かれました。本から想像しながら実際に作ってみたら、犬しか食べてくれない、硬くてしょっぱいパンが焼けたのを覚えています。

 

パンにまつわる微生物と醗酵、熟成、粉のたんぱく質の違い、そういったことも私の理系心をくすぐりました。職人にも憧れていました。

 

お菓子は退院後、「嘘と迷信のないフランス菓子」という教室に通ってみました。そこで習ったことは目から鱗のことがたくさんありましたし、知り合った人たちもなかなか刺激的でした。でも、お菓子は芸術的センスがないと無理かも。という消去法もありました。

それと...この教室は代官山にあるのですが、当時代官山にあった「カフェ・アルトファゴス」(パン屋)に立ち寄ると、そのパンの香りに圧倒されました。買ったパンを紙袋に入れてくれるのですが、それを持って電車に乗ると、車両中に香りが充満してしまうのではないかとドキドキしたことを覚えているし、その香りを今も思い出せます。後にそのパンを焼いていた志賀シェフのもとで働けたのはほんとに幸せでした!

 

それと、当時は認識していませんでしたが、ずっと低血糖があったのかもしれません。

2人の子を出産するまでは、自分に健康上の問題があるとは全く思っておらず、スポーツもバンバンし、めまいですら、単に機能障害だと思っていましたが、高校生の頃から居眠りの激しい人でした。大学の講義もだいたい寝ていたように思います。一度、大学の診療所に行き、「講義中に眠くて起きていられないのです」と相談しましたが、「講義は眠いもんだ!」と一喝されて終わったのをよく覚えています。

夜遊びもしましたが、いつも寝不足だったわけでもありません。

 

そしてそれは就職してからも続きます。実験をしている時は手を動かしているので大丈夫でしたが、セミナーや勉強会はほぼ爆睡していました。誰しも勉強していて眠くなることはあると思いますが、ちょっとひどかったのではないかと思います。

それもあって、「主に身体を動かして働くお仕事をしよう」と思いました。

そんなこんなで、自分の心にピカーン!と残ったのがパン職人だったのです。

そもそもなんでパン屋だったのか?

「そもそもなんでパン屋だったの?」って時々聞かれます。

「そもそもなんで会社員なの?」とは人は聞かないのに。

 

そもそも私は会社員でした。

大学で生化学を専攻して卒業後は製薬会社で研究職という名のお仕事をしていました。

 

今となってみれば、不調は40を過ぎて急に始まったものではなく、子供の頃からのあれやこれやからずーっと繋がっていたと思います。でも、若いうちは誤魔化すことができるのですよね。ずっと自分は健康で元気だと思っていました。

 

幼少期は丈夫な方ではなく、小学1,2年の頃は熱を出したりしてしょっちゅう学校を休んでいました。

身体も小さかったので、ランドセルが重すぎるのではないか?と、祖母が赤い布でリュックを作ってくれて、しばらくそれを使っていた時期もありました。

個人的にはランドセルの必要ある?って思います。あれは重いですよね~

 

何歳だったかは覚えていませんが、低学年のとあるお正月に遠くに住む祖父母に電話をかけた時、左耳が聞こえてないことが発覚しました。生まれつきなのか?いつからなのかは分かりませんが、お医者さんにはおたふくかぜの後遺症でしょう。と言われたそうです。

 

おたふくかぜはとても軽かったのですが、それでも難聴になることもあるのだそうです。でも片方聞こえればだいたい大丈夫です。

 

問題は平衡機能でした。

 

たぶん中学生くらいからだと思いますが、突然ぐるぐる回るめまいが起こるようになりました。いつも本当に突然でしたし、いつめまいが起こるのか自分でも分かりませんでした。

 

第一希望の高校入試の直前にもぐるぐる回っており、もちろん落ちました。

深く考えもせずに受けた第2志望の高校は、家からとても遠くて寮に入りましたが、この頃まためまいがひどく、2年生になる時には家族が引っ越して自宅に戻りました。その後5年ほどは薬でなんとかなっていましたが、大学4年生になるとまたぐるぐる回り始め、卒業はできましたが卒業式の朝からぐるぐる回って式には参加できませんでした。

 

いろいろあったものの、無事に就職はできましたが、会社に入ってからも突然回りだすのは続きました。ブラックなところは何一つない、恵まれた環境だったので、ストレスは殆どありませんでしたが、これでは働き続けることができないという状態になり、入社3年目頃に「手術をしてめまいを止めよう。」ということになりました。

 

めまいの原因は分からないけれど、左側の三半規管の機能不全かも。

左側の上下前庭神経を切断すれば、やがて正常な右側の神経だけでバランスをとれるようになり、めまいは起こらない。ということでした。

 

神経を切断すると言っても、その神経があるのは、頭蓋骨の中です。まずは耳の上の頭蓋骨を長方形に切り取って外し、内視鏡で中に入り、さらに先にある骨の壁を歯医者さんのドリルのようなもので直径1cmくらいの穴を開け、その奥にある上下前庭神経をハサミで切る。ドリルで開けた穴は、太ももから取った筋膜にフィブリン糊をつけて貼り付けてふさぎ、頭蓋骨をもとに戻す。とまあ8時間もかかるものでした。

 

考えたら恐ろしい手術ですが、その頃は突然のめまいに翻弄されすぎて先が見えず、とにかくめまいが止まるなら。と、怖さは感じていませんでした。

 

当時、私が所属していた研究所の所長さんは、「最近抗ウイルス薬でめまいが改善するという報告があるから、まずはそれを試してみたらどうか?」と言ってくださったのですが、すでに同意書にサインをして、「早くめまいをなくしたい!」と思っていた私は、「もう決めましたので」と答えてしまいました。

 

後悔はしていませんが、今の私なら試してみただろうと思います。その所長の言葉が忘れられないのは、やってみれば良かったという気持ちがあるからかもしれません。

 

そして!その手術を受けたわけですが、なんとわざわざ太ももの筋肉から切り取って貼り付けた筋膜がちゃんとくっつかなかったらしく、術後に髄液が鼻から出っ放しになってしまいました。そして脳が外と通じてしまっているがゆえに感染が起き、40度越えの高熱が何度も出るという事態に。生まれて初めて、まだ25歳にして、「これは死んでしまうかも」と思いました。それはそれは怖かったです。

その時強烈に「まだ私ちゃんと生きていない」と思いました。

その後再手術をし、もちろん生還したわけですが、ここから葛藤が始まりました。

「どう生きたら、死ぬ時に後悔しないんだろう???」

...つづく...

 

分子栄養学との出会い

 

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9年ほど前、長年の夢だったパン屋を開業しました。次女を産んだ後の育児休業中でした。長女を保育園に送り、次女をおんぶしたまま近所を自転車でフラフラしていた時に、小さな貸物件と出会ったのです。

それまでも10年以上、パンを作る様々なお仕事をしており、「ここだ!今だ!」という気持ちでした。

その時からすでに、「疲れやすい」という自覚があったのですが、「きっと産後だから1年もすれば元気になるはず」と、すでに40オーバーだったにも関わらず自分の体力を過信し突っ走りました。

 1人でパン屋を開業するというのは、楽しいながらもなかなか大変です。 詳しいことは省略しますが、気の抜けない長時間労働が続き、半年も経たないうちに身体は悲鳴を上げ、「何か大変なことが身体の中で起こっている」と思い始めました。

 

今となれば、10代後半から20代にかけての無茶なダイエットや、そもそも鉄が足りていなかったのに2度の出産による更なる鉄欠乏、不十分な栄養知識、子供の頃から口に入っていたアマルガム。もろもろいろんなことが絡み合って、ミネラル不足だったし、腸も荒れていたし、さらに何年も前から思い返せば、小麦が合っていなかったなあと納得ですが、当時はそんなことは全く分かりませんでした。

まじめな性格や、自分にダメ出しをするクセも、身体を痛めつけていたのだと思います。

 

とにかく疲労が激しく、寝ても休んでもいっこうに疲れが取れません。食事をすればお腹が痛い。背中が痛い。花火のような環状紅斑が出る。

今まで感じたことのないような怖い感覚があり、時間がない中で手あたり次第に病院に行きましたが、通常の保険診療の検査では何も出ず、ほとんど相手にされませんでした。

 

店舗を借りて改装工事をし、機材を購入して店を立ち上げたところでしたから、休むわけにはいきませんでした。

仕事を引退した母と会社員の夫が全面的に助けてくれていましたが、当時娘たちは1歳になったばかりと3歳。

にっちもさっちもの中、必死で調べまくり「副腎疲労」という言葉にたどり着きました。

思い当たるふしだらけでした。

 

そしてその言葉を発信していたドクターのもとへ、検査に行きました。

この頃の私は歩くのも辛く、久しぶりに会った友人に、「足を怪我しているの?」と聞かれたほどでした。

 

自由診療というものを知らなかった私は、正直その検査費用には戸惑いました。

でも、どこの病院に行っても相手にされなかったのが、それらの検査によって私の不調の原因が分かりました。その時はまだ何も解決していませんでしたが、ものすごくほっとしたのを覚えています。

 

腸のコンディションが非常に悪く、炎症を起こしているレベルで、消化力も弱く、そのために小麦グルテンにかなり反応していました。

 

このことはまた別の機会に詳しく書くことになると思いますが、そこから「分子栄養学」の世界を知ることになります。 

 

パン屋を開業してまだ1年足らずでしたが、そこからは小麦を食べるのをやめました。まずは腸を刺激するものは避け、腸を整えるためのサプリメントを飲みました。

原因もだいたい分かったし、もう大丈夫!とても明るい気持ちになりました。

でも、そんな簡単ではなかったのです。ここからまだまだ長い試行錯誤の日々が続きます。

 

 

人生初のブログ

この春から、分子栄養学のお勉強を始めます。

学びを深めるため、自分がもっと早く知りたかった!をシェアするため、このブログを始めました。子育てのこと、グルテンフリーライフのことなど徒然なるままに。

 

そもそも分子栄養学って?ですが、自分なりの言葉にしてみると、

 

「CTやMRIに何も映らなくたって、足りない栄養があったり、身体の中にさび付いて働きの鈍い部分があると、アチコチ上手くいかない部分が出てきて調子悪くなってしまう。身体の働きを細胞レベル、分子レベルから理解して、なんで足りなくなるのかも考えて、調整して、食事も整えて、本来の身体に戻すこと

 

今のところはそういう理解です。

 

身体ってどこまでも複雑で神秘的。きっと学べば学ぶほど奥が深そうで、ワクワクします。(変態です)

そんな純粋な興味が半分。もっと元気になりたい、周りの人も元気でいて欲しい。

ということで学んでいきます!

 

私が分子栄養学に興味を持ったきっかけは、10年程前、2度の出産の後に自覚し始めた自分自身の不調です。次回はその辺から書きたいと思います。